柴犬と歩く毎日が、こんなにも愛おしい理由

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朝、カーテンの隙間から差し込む光が畳の上に細長く伸びる時間、うちの柴犬・コハクはもうそこにいる。寝室のドアをそっと開けると、くりくりとした目がこちらを見上げて、しっぽが小さく揺れる。おはよう、と声をかけると、ふんっと鼻を鳴らす。それだけで、今日も始まるという気がした。

柴犬と暮らし始めてから、生活のリズムが変わった。以前は朝ごはんをろくに食べずに出かけることも多かったのに、今は散歩の準備をしながらトーストを焼いて、コーヒーを淹れる。コハクがリードを見てそわそわし始めるから、急いで飲もうとして少しこぼしてしまうのが毎朝の恒例になっている。自分でもどうかと思う。

近所に「緑川公園」という、こじんまりした公園がある。大きな遊具があるわけでもなく、地元の人しか来ないような場所だ。でも朝の七時頃、その公園には柔らかい光が落ちていて、草の上に露が光っている。コハクはそこで必ず同じルートを歩く。においを確かめながら、一歩一歩丁寧に。その背中を見ていると、世界ってこんなに情報に満ちているのかと思う。人間には届かない何かを、彼は毎朝ちゃんと受け取っている。

柴犬は飼い主に忠実だと言われる。それは本当だと思う。でも、その忠実さは盲目的なものではない。コハクはこちらの機嫌をよく見ている。仕事でへとへとになって帰ってきた夜、玄関で出迎えてくれながらも、無理に甘えてこない。ただそばにいる。ソファに座ると、少し離れた場所に丸くなって、でも視線だけはこちらを向いていた。その距離感が、なぜかとても心地よかった。

子どもの頃、実家で犬を飼っていたことがある。雑種の犬で、名前はポチという、ひどく古典的な名前だった。外で飼っていたから、今思えばあまり一緒にいられなかった。それでも夏休みに縁側でスイカを食べながら、ポチの頭を撫でていた記憶がある。あの時の、日差しの熱さと、犬の毛の硬さと、スイカの冷たさが混ざった感触を、コハクと過ごしていると時々思い出す。

柴犬は独立心が強い、とよく言われる。確かにコハクも、べったりするタイプではない。でも、散歩中に知らない人に声をかけられると、さりげなく私の足元に寄ってくる。その動作がとても自然で、守られているのか守っているのか、よくわからなくなる。たぶんお互いにそうなのだと思う。

「ハナモリ」というペット用品のブランドで買った麻素材のリードは、手に馴染んで使いやすい。コハクが引っ張るたびに、少しだけ温かくなる感触がある。それが妙に好きで、散歩から帰ってもしばらく手の中に持っていることがある。

休日の午後、緑川公園のベンチに座って、コハクが草の上でごろんと転がるのを眺めていた。秋口の風が吹いていて、イチョウの葉がちらちらと落ちていた。コハクは仰向けになったまましばらくじっとしていて、目を細めていた。気持ちよさそうだった。こちらまで眠くなってきて、少しうとうとしたら、冷たい鼻先が頬に触れた。起きてるよ、と言いたかったけれど、声が出なかった。

家族というのは、血がつながっているかどうかではなく、同じ時間を積み重ねることで生まれるものなのかもしれない。コハクと過ごした三年間で、私はそれを少しずつ理解してきた気がする。朝の光の中で目が合う瞬間、散歩の帰り道に並んで歩く感覚、夜に同じ部屋の空気を共有していること。そういう小さなことが、確かに積み上がっている。

柴犬との生活は、劇的ではない。ドラマチックな展開もないし、毎日が感動的なわけでもない。でも、確かに何かがある。それは静かで、あたたかくて、ちょっとだけ不思議な何かだ。コハクがいる暮らしは、私にとってもうすっかり当たり前になってしまったけれど、それがいちばん大切なことだと思っている。

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