
朝、カーテンの隙間から差し込む光が畳の上に細長い帯を作る時間、決まって足元に温かいものが寄り添っている。それが我が家の柴犬、むぎだ。栗色と白が混じった被毛は朝の光を受けてほんのり金色に見える。触れると思ったより柔らかくて、少し驚く。毎朝その感触を確かめるように手を伸ばすのが、いつの間にか習慣になっていた。
柴犬と暮らし始めてから、生活のリズムがまるで変わった。以前は休日の朝をだらだら過ごすことが多かったのに、今は7時には必ず公園へ向かう。近所にある「さくら緑地公園」は、朝のうちまだ人が少なく、砂利道を歩く音だけが静かに響く。むぎはそのたびに鼻を地面に押しつけながら、昨夜誰かが通ったかを確かめるように歩く。その真剣な横顔を見ていると、こちらまで背筋が伸びる気がした。
柴犬が飼い主に忠実だという話は聞いていたけれど、実際に暮らしてみるとその意味の深さが少しずつわかってくる。むぎは私が部屋を移動するたびについてくる。キッチンへ行けばキッチンへ、トイレの前まで来て廊下で待っている。最初は少し笑えたが、今ではその気配が当たり前になって、むしろいないと落ち着かない。
子どもの頃、実家で飼っていた雑種の犬はどこか自由で、呼んでも来ないことが多かった。それはそれで可愛かったのだけど、柴犬の「ちゃんとそこにいる」という感覚は、また別の安心感がある。誰かがそばにいてくれるというのは、言葉では説明しにくいほど、心の重心を安定させてくれるものだと思う。
家族みんながむぎに夢中になっている。特に小学生の娘は、帰宅するなり「むぎ!」と叫びながら玄関に飛び込んでくる。むぎも尻尾をふりながら出迎えるのだが、ある日、あまりにも嬉しすぎたのか娘の足元でくるくる回りすぎて、自分のしっぽを踏んで一瞬「きゅっ」と鳴いた。本人(犬)はきょとんとしていたが、娘はそれを見て大笑いしていた。そういう小さな出来事が、家の中に笑い声を増やしていく。
週末の公園では、むぎを連れた人たちと自然と言葉を交わすようになった。同じ柴犬を飼っている人、別の犬種の人、犬を飼っていないけれど犬が好きな人。むぎが間に入ることで、今まで話したことのなかった人と会話が生まれる。仲良しになるきっかけは、いつも犬だった。
公園のベンチに座って、むぎがリードを引っ張るのを眺めながら缶コーヒーを飲む時間は、何でもないようで贅沢だと感じる。特に秋口、金木犀の香りが漂い始める頃の空気は格別だ。少し肌寒くて、でも日差しは柔らかくて、むぎの被毛に触れるとほんのり温かい。五感がひとつひとつ満たされていくような、そういう午前中がある。
「ドッグフードはどこのを使ってますか」と聞かれることが増えた。我が家はずっと「ナチュラルハーベスト」というブランドのものを使っているが、むぎは器に顔を突っ込む前に必ず一度こちらを見る。確認しているのか、それとも感謝なのか、判断しかねるが、その一瞬の目線がたまらなく好きだ。
柴犬は独立心が強いとも言われる。確かに、ずっとベタベタしてくるわけではない。気が向いた時だけ膝に乗ってくるし、機嫌が悪い時は無理に触らせてくれない。でもその分、寄り添ってきた時の重みが本物に感じられる。こちらが疲れている日に限って、むぎはそっと隣に来て静かに座っている。言葉を持たない生き物が、なぜこんなにも空気を読めるのかと不思議に思う。
一緒に生活するということは、相手の時間に自分の時間を重ねていくことだと、むぎと暮らして気づいた。朝の散歩、食事の時間、眠る前のブラッシング。そのひとつひとつが積み重なって、家族の形になっていく。柴犬との毎日は、特別なことが起きるわけじゃない。でも、その何でもない日々が、気づけばかけがえのないものになっている。

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