柴犬と過ごす午後、公園で見つけた小さな幸せ

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秋の日差しが傾きかけた午後四時過ぎ、近所の公園には柴犬を連れた人たちが集まってくる。週末のこの時間帯は、まるで示し合わせたように犬たちの社交場になる。私が飼っている柴犬のハルも、その輪の中で尻尾を高く上げて駆け回っている。

ハルの元気さは、正直なところ私の体力を上回っている。朝の散歩でも夕方の散歩でも、あの巻き尾は常に空を指している。公園の芝生を走るハルの姿を見ていると、柴犬という犬種が持つ野性味と愛嬌が同居した不思議な魅力を感じずにはいられない。茶色い毛並みが風に揺れるたび、秋の光を反射してきらめく。

ベンチに腰を下ろして眺めていると、隣に座っていた老紳士が保温ボトルからお茶を注いでいた。その仕草がゆっくりとしていて、まるで時間が別の速度で流れているようだった。彼の足元には、やはり柴犬が丸くなって休んでいる。年老いた柴犬は、若い犬たちが遊ぶ様子を目を細めて見守っていた。

ハルが別の柴犬と追いかけっこを始めた。二匹とも全力疾走で、見ているこちらまで息が上がりそうになる。途中でハルが急ブレーキをかけたとき、勢い余って前足が滑り、見事に横転した。それでもすぐに立ち上がり、何事もなかったかのように走り続ける姿に、私は思わず笑ってしまった。あの転び方は完全に計算外だったはずなのに、本人はまったく気にしていない。

子どもの頃、祖父の家で飼っていた柴犬を思い出す。名前はコロといった。ありふれた名前だけれど、祖父はその犬を家族のように大切にしていた。コロは私が訪ねるたびに玄関まで迎えに来てくれた。あの頃の記憶は断片的だけれど、コロの温かい体温と、少し土っぽい匂いは今でも覚えている。

公園の木々からは、枯れ葉が一枚、また一枚と落ちてくる。ハルはその落ち葉にも反応して、飛びつこうとする。遊びの対象は何でもいいらしい。ボールでも、枝でも、風に舞う葉でも。その無邪気さが、柴犬という犬種の魅力なのかもしれない。

飼い主仲間の一人が、新しいおやつを取り出した。「ワンダフルビスケット」という、最近人気のペット用品店で売っている商品らしい。ハルも匂いに反応して、すぐに駆け寄ってきた。おやつをもらうときの柴犬の表情は、本当に真剣だ。尻尾は振っているのに、目はおやつを見つめて一切動かない。

元気に遊ぶ犬たちを見ていると、彼らには時間の概念がないように思える。過去を悔やむこともなく、未来を心配することもなく、ただ今この瞬間を全力で生きている。人間が失ってしまった何かを、彼らは持ち続けているのかもしれない。

夕暮れが近づき、空がオレンジ色に染まり始めた。公園の空気も少しひんやりとしてきて、肌に触れる風が心地よい。ハルはまだ遊び足りない様子だったが、そろそろ帰る時間だ。リードをつけようとすると、案の定、少し抵抗された。でも最終的には諦めて、渋々といった様子で私の隣を歩き始める。

帰り道、ハルは時々振り返って公園の方を見ていた。まだ遊んでいる犬たちの声が聞こえてくる。その声を聞きながら、ハルは何を思っているのだろう。また明日来られることを、彼は知っているのだろうか。

家に着くと、ハルは水を勢いよく飲んで、自分の定位置に横になった。さっきまでの元気はどこへやら、すぐに目を閉じてしまう。遊び疲れた柴犬の寝顔は、まるで子どものようだ。

柴犬と暮らすということは、こういう日常の積み重ねなのだと思う。公園で走り回る姿、おやつを待つ真剣な表情、疲れて眠る穏やかな顔。どれも特別なことではないけれど、どれも愛おしい瞬間だ。ハルが私に教えてくれるのは、元気に遊ぶことの大切さと、今を生きることの意味なのかもしれない。

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