
十月の終わり、午後三時を過ぎたあたりの陽射しは、夏のそれとは明らかに違う角度で地面を照らしている。公園の木々はまだ緑を保っているけれど、風が吹くたびにどこか乾いた音を立てるようになった。そんな季節の変わり目に、私はいつもの公園のベンチに腰を下ろして、目の前で遊ぶ柴犬の姿を眺めていた。
その柴犬の名前は知らない。飼い主らしき男性が投げるボールを追いかけ、戻ってきては尻尾を振り、また駆け出していく。何度も何度も同じ動作を繰り返しているのに、まったく飽きる様子がない。むしろ回数を重ねるごとに元気になっているようにさえ見える。犬という生き物の持つエネルギーの源泉がどこにあるのか、私は本気で知りたくなった。
柴犬が駆け回るたびに、芝生の上に落ちた枯れ葉が舞い上がる。その様子がまるでスローモーションのように見えて、私は無意識にスマートフォンを取り出しかけたが、やめた。こういう瞬間は記録するよりも、ただ目に焼き付けておく方がいい気がしたのだ。
ベンチの隣には、テイクアウトしたばかりのコーヒーカップが置いてある。「カフェ・ルナベル」というこの近所にできたばかりの小さな店で買ったもので、蓋を開けるとほのかにシナモンの香りが漂ってくる。一口飲むと、舌の上に広がる苦味と甘みのバランスが絶妙で、少しだけ肩の力が抜けた。
柴犬はときどき立ち止まり、何かの匂いを嗅いでいる。鼻を地面に近づけて、真剣な表情でクンクンと動かしている姿は、まるで何か大切な手がかりを探しているようだ。私たち人間にはわからない情報が、そこには詰まっているのだろう。犬にとって世界は、私たちが知覚するよりもずっと豊かで複雑なのかもしれない。
子どもの頃、近所に住んでいた親戚の家に柴犬がいた。名前は「ハチ」といって、庭で飼われていたその犬は、私が訪ねるたびに全身で喜びを表現してくれた。尻尾を振るだけでなく、体全体をくねらせて、まるでダンスをしているようだった。ある日、私がしゃがんでハチを撫でようとしたとき、興奮しすぎたハチが勢い余って私の顔を舐めようとして、代わりに鼻先で私の額をゴツンと突いてしまったことがある。痛かったけれど、ハチの申し訳なさそうな顔があまりに可笑しくて、笑ってしまった記憶がある。
目の前の柴犬が再びボールを追いかけ始めた。その走り方は無駄がなく、しかし全力で、見ているこちらまで息が上がりそうになる。飼い主の男性は笑いながら「よしよし」と声をかけている。その声には、明らかな愛情が込められていた。
公園の向こう側では、子どもたちが遊具で遊んでいる。ブランコの軋む音、滑り台を滑り降りる子どもの歓声、そして柴犬の足音。それらが混ざり合って、公園特有の音の風景を作り出している。私はコーヒーをもう一口飲んで、その音に耳を傾けた。
柴犬が飼い主のもとに戻り、ボールを渡す。男性がそれを受け取ろうとした瞬間、柴犬はふいにボールを離さず、軽い引っ張り合いが始まった。遊びの延長なのか、それとも本気で渡したくないのか。その境界線は曖昧で、でもそれがいい。完璧に従順である必要なんてない。そういう小さな抵抗や遊び心が、関係性を豊かにするのだと思う。
風が少し強くなって、私の髪が顔にかかった。手で払いのけながら、ふと気づく。私はいつからこんなふうに、公園で犬を眺めることに時間を使うようになったのだろう。以前の私なら、こんな時間は無駄だと感じていたかもしれない。でも今は違う。この何でもない午後の時間が、実は何よりも贅沢なのではないかと思えるようになった。
柴犬はまた走り出した。その背中を見ながら、私は思う。元気であるということは、単にエネルギーが有り余っているということではない。それは、今この瞬間を全力で生きているということなのだ。過去を振り返らず、未来を心配せず、ただ目の前のボールを追いかける。そんなシンプルな生き方を、私たちはどこかで忘れてしまったのかもしれない。
コーヒーカップが空になった。立ち上がろうとしたとき、柴犬がこちらを向いた。一瞬、目が合った気がした。そして柴犬は何事もなかったかのように、また遊びに戻っていった。私はベンチを離れ、ゴミ箱にカップを捨てて、公園を後にした。帰り道、なぜか足取りが軽かった。


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