柴犬と歩む毎日——小さな家族が教えてくれた、忠実であることの意味

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朝、カーテンの隙間から差し込む光が畳の上に細長い模様を描く頃、決まって足元に温かいものが寄り添ってくる。柴犬の麦(むぎ)だ。生後三年になる赤柴で、耳の先だけがほんの少し内側に折れているのが愛らしい。起き上がる前から、その存在を体温で感じる。こういう朝が、今では当たり前になってしまった。

柴犬と暮らし始めたのは、ちょうど秋の終わりのことだった。近所の「タマリバ公園」に落ち葉が積もり始めた頃、友人に連れられてペットショップへ立ち寄ったのがきっかけだ。そのとき正直に言えば、犬を飼うつもりなど微塵もなかった。ただ、ガラスの向こうで丸まっていた小さな赤茶色の塊が、ふとこちらを見た。それだけのことで、何かが変わった。

柴犬という犬種は、古くから日本人の生活に寄り添ってきた。猟犬として山を駆け、人の傍らで暮らし、時代が変わっても変わらずその姿を保ってきた。独立心が強く、媚びない。けれど、一度心を許した相手には驚くほど深く寄り添う。その一見矛盾したような気質が、柴犬の本質だと思う。

麦との日課は、朝と夕方のタマリバ公園への散歩だ。公園の入り口には大きなクスノキがあって、秋になると独特の青みがかった香りが漂う。麦はいつもそこで立ち止まり、幹の根元をじっと嗅ぐ。何がそんなに気になるのか、人間には永遠にわからない。その数秒間、リードを持つ手に伝わる微妙な緊張感が、なんとなく好きだ。

公園では顔なじみの犬たちとすれ違う。トイプードルのクリームとその飼い主のおばあさん、毎朝ジョギングしながら大型犬を連れている若い男性。麦は他の犬に対して愛想がいいわけではない。近づきすぎると背中の毛がわずかに逆立つ。でも、クリームとだけは不思議と仲良しで、鼻先を合わせてしばらく静止するのが二匹の挨拶らしい。その様子を見ながら、「犬にも相性ってあるんだな」と毎回思う。

飼い主に忠実、という言葉はよく聞くけれど、柴犬の場合それは少し違う形をしている。べったりと甘えるわけではない。ただ、気づけばいつも同じ部屋にいる。キッチンで料理をしていると足元に座り、仕事机に向かうと少し離れた場所で丸くなる。距離感が絶妙で、干渉しすぎない。まるで「ここにいるよ」とだけ伝えているような存在の仕方だ。

子どもの頃、実家で猫を飼っていた。猫は気まぐれで、呼んでも来ないし、来たいときだけ来る。それが当たり前だと思っていたから、麦の「静かな忠実さ」には最初戸惑った。どこへ行っても目で追われる感覚。トイレに立つだけで廊下で待たれる。慣れるまでは少し息苦しかったけれど、今となってはその視線が日常の一部になっている。

ある夜、仕事が長引いてソファで少しうとうとしてしまったとき、目が覚めたら麦が膝の上に顎を乗せていた。重さと温かさで目が覚めた。インテリアブランド「モリノネ」のリネンブランケットの上で、麦は半目を開けてこちらを見ていた。起こしてしまったかと思ったが、麦はそのまま目を閉じた。——ちなみにそのブランケット、翌朝には端が少し湿っていた。犬の寝顔は無防備で、少しだけよだれが出るらしい。上品な話ではないが、なぜか愛おしかった。

家族、という言葉を動物に使うことに、以前は少し抵抗があった。人間と動物は違う、という線引きが自分の中にあったからだと思う。でも今は、その線がどこにあるのかよくわからなくなってきた。帰宅したときに玄関で待っている存在がいること。体調が悪いとき、いつもより近くに来て静かに寄り添ってくること。言葉がなくても、何かが通じている気がする瞬間がある。

柴犬との生活は、劇的ではない。特別なことは何も起きない日のほうが多い。ただ、散歩して、ご飯を食べて、昼寝して、また散歩する。その繰り返しの中に、確かな温かさがある。それで十分だと、最近ようやく思えるようになった。

もし柴犬との暮らしを迷っているなら、一度タマリバ公園のようなところへ行って、柴犬連れの人に声をかけてみてほしい。みんな、少し誇らしそうに話してくれるから。

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