
うちに柴犬が来たのは、確か梅雨入り前の蒸し暑い日だった。
ペットショップで一目惚れしたわけじゃない。知り合いのブリーダーが「この子、ちょっと気難しくて引き取り手がいなくて」って困ってたのを、母親が勝手に「うちで飼う」って決めちゃったんだよね。僕は正直、犬とか興味なかったし、世話とか面倒だなって思ってた。名前はマメ。ありきたりだけど、妹が付けた。
最初の一週間は本当に大変で、夜中にクンクン鳴くし、トイレは覚えないし、リビングのソファの脚をガリガリ噛むし。父親なんて「こんなはずじゃなかった」って完全に後悔モードだったよ。でもね、不思議なもんで、二週間くらい経つと家族全員がマメ中心の生活になってた。朝は誰が散歩に行くかで揉めるし、ご飯の時間になると妹が「マメちゃんのご飯先!」って叫ぶし。
僕が一番変わったかもしれない。
在宅ワークになってから、ずっと自室にこもりっぱなしだったんだけど、マメが来てからはリビングで仕事するようになった。っていうのも、マメが僕の部屋のドアの前でずっと待ってるのが可哀想で。リビングに出てくると、マメは僕の足元で丸くなって寝るんだよね。その温もりが、なんていうか、地味に癒される。ZOOMの会議中に画面に映り込んで、取引先の人に「可愛いですね」って言われたときは、ちょっと誇らしかった。親バカならぬ犬バカってやつ?
そういえば前に飼ってたハムスターのことを思い出した。小学生の頃なんだけど、名前も覚えてない。一ヶ月くらいで死んじゃって、当時は泣いたけど、今思えば世話なんてほとんどしてなかったな…。あれは完全に「飽きた」だけだったと思う。
夕方になると、家族が自然とリビングに集まるようになった。別に何をするわけでもない。母親は編み物しながらマメを眺めてるし、父親は新聞読みながら時々マメの頭を撫でる。妹はスマホいじりながら、足でマメのお腹をさすってる。僕はノートパソコン開いてるけど、正直あんまり集中できてない。マメがたまに「ふぅ」ってため息みたいな音を出すのが面白くて、つい見ちゃうんだよね。
冬になって暖房をつけるようになってから、マメの定位置が変わった。エアコンの真下じゃなくて、なぜか廊下との境目あたり。温度がちょうどいいのかな。そこに座布団を置いたら、もうそこから動かない。家族がリビングとキッチンを行き来するたびに、マメの横を通る。そのたびに誰かが「マメちゃん」って声をかける。返事なんてしないけど、尻尾がちょっと動く。
正月に親戚が集まったとき、従兄弟の子供がマメを追いかけ回して、マメがストレスで吐いちゃったことがあった。母親が「もう二度と呼ばない」ってブチ切れて、親戚との関係がちょっとギクシャクした。でも家族内では「マメを守った母ちゃん、かっこよかったね」って話になって、なんか結束が強まった気がする。ペット中心主義っていうのかな、この家は完全にそうなってる。
夜、マメが寝床に入る前に必ずリビングを一周するのが日課になってる。家族全員の顔を確認してるみたい。僕の足元に来て、ちょっと鼻を押し付けて、それから母親のところに行って、父親、妹って順番に。最後に自分の寝床に戻って、くるっと回ってから寝る。この儀式が終わらないと、誰も自分の部屋に戻らない。
別にマメが来たから家族仲が劇的に良くなったとか、そういう美談じゃないんだよね。相変わらず父親と妹は些細なことで喧嘩するし、母親は愚痴が多いし、僕は僕で面倒くさがりだし。ただ、マメがいるから同じ空間にいる時間が増えた。それだけのこと。
たぶん、これからもそう。マメが老いていって、介護が必要になって、いつか看取る日が来る。そのとき家族がどうなってるかなんて、今は想像できないけど。

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